「バイクで旅をするのはいいぞ」
自分が勤め先のデイサービスの利用者、釜戸さんの口癖だった。
気難しい人だが、バイクで全国のキャンプ場を巡るのが生きがいで若い頃には日本一周の旅をしたこともある無類の旅好き。
自分がデイサービスで唯一の男性スタッフで、他の介護スタッフが気難しい釜戸さんを避けていたから自然と話すようになり、釜戸さんは自分だけには他のスタッフとは違う、どこか特別扱いをされていたと思う。
だから必然と会話する機会も増え、キャンプやバイクの話を聞くたびに、いつの間にか自分も興味を持つようになっていった。
だからといって、頭の中で妄想にも近い計画を立てるだけで、行動を起こすようなことはしなかった。
今の生活を捨てる気にはなれなかったし、ただの憧れ半分なところがあった。
そんなある日、送迎中のバスの中で、外の景色を見ていた釜戸さんがいつもと違う少し冷たいような口調で「人間、明日何が起きるか分からない、出来なくなってからじゃ後悔するぞ」
そう一言呟いて、また横を向いて外の景色を見始めた。
いつもと違う冷たい口調に少し戸惑い、このときは苦笑いを返すしか出来なかった。
家に帰っても、送迎中の車で言われた言葉が頭から離れずにモヤモヤしていた。
元々デイサービスに勤めたときには既にいた釜戸さんは、スタッフの話を聞くと糖尿病が原因で失明し、ここを利用するようになったそうだ。
普段は絶対、会ったこともない過去の偉人が名言で残していそうな言葉に心動かされることがない自分だけど、失明して二度と1人で旅が出来ない、そんな釜戸さんの口から出た言葉だからこそ、初めて人生で1度くらい何か冒険してみたいと考えるようになっていた。